二十一節の解釈

 あしきをはらうてたすけたまへ天理王命二十一遍唱える理は人間には二十一の悪しき節が有る故に此の二十一節をとる為に悪しき払いを二十一遍唱える理也。

 非道の欲しい出し惜しみ、身惜しみ、骨惜しみ、恨み、そねみ、りんき、嫉妬、かんしゃく、かんてき、我が身と人との隔て、我が子とひとの子の隔て、悪口、仲言、笑い、そしり、強欲、重欲、自慢、我慢、高慢。

 以上二十一の悪しき節也よくよくつつしむべく恐るべく、払うべき也慎み恐れて払わざる時は病気、病難、怪我、過失にて身体を損ない、はなはだしきに至っては身体を滅ぼすなり又不事災難等にて家財をなくし又蕩尽すよくよく恐るべく慎むべきなり。

 

 非道の欲しいと云うは我が身丹誠を尽くしてまとまるべきをまとめずして身を怠りあれが欲しいこれが欲しいと思い人の目をかすめたりくらましたり人の目を盗む心を非道の欲と云う。

 

 出し惜しみと云うは人より物を貰いて身分相応の返礼すべきを返礼せず又借りて返す時に惜しみたり返さざるが如き心を出し惜しみと云う。

 

 身惜しみと云うは我が身にてすべき事を言葉にて人を使う心を身惜しみと云う。

 

 骨惜しみと云うは我が骨折ってすべき事を人に骨を折らし例えば五人に五十のすべき事の当りたる時我が身にて五つ位をしてあとの五つを外四人の者に差せるが如き事を骨惜しみと云う也。

 

 恨みと云うは金銭縁談を無理非道にてすべてツナギ連続を切り恨まれるを恨みと云うなり。

 

 そねみと云うは人の出世勉強或いは繁盛する事を忌々しいと思い又人の善き事をよいと思わざる心をそねみと云うなり。

 

 りんきと云うは男女互いに色情の事を疑うが如き心をりんきと云うなり。

 

 嫉妬と云うは多く妻妾の間に起る心にて全て人と互いに妬み合う事を嫉妬と云うなり。

 

 かんしゃくと云うは全て身上に腹を立てる事にてその場にては左程に無く陰にて怒る心をかんしゃくと云う。

 

 かんてきと云うは身下の者に表にて怒る事にて全て妻子弟妹或いは召使い等の者に腹を立てる心を云うなり。

 

 我が身と人との隔てと云うは我が身程可愛者はない。それほどに可愛者なれば人の身も同じく思えばよい成れどもそれほどに思わず。例えば美味しい物は我が身が食べ不味い物は人に食わそうとするが如き心を云う也。

 

 我が子と人の子の隔てと云うは我が子程可愛者はない人の心になれば誰も同じ事也。しかるにそれを思わず人の子の理を理と思わず我が子の非を理と思い例えば又我が子と人の子と一所に居る所にて人の子に隠して我が子に物品を与える如き心を隔てと云うなり。

 

 悪口と云うは其の人に対しては悪いと云う事を知りて云わず其の人の居らぬ所にて他の人に聞かす如き事を悪口と云うなり。

 

 仲事と云うは或い一人の悪しき事を聞き其の言われたる人に我が身が気に入る為に告げるが如き事を仲言と云うなり。

 

 笑いと云うは人の遣り損ない人の失策の穴を見たり聞いたりして気の毒な不憫と思わず却っておかしがる心を笑いと云うなり。

 

 そしりと云うは我が身に関係無き事でも人の欠点人の失策の穴を探して人に話し合う事をそしりと云うなり。

 

 強欲と云うは人間は衣食住の三ツの苦と義理応保と云う此の四ツの苦は至当の事にて成さねばならぬ事也。なれども何ぼ足りても足る事を知らず我さえよくば人はどうでも倒れてもかまわん我が身に付けよ取り込む事を強欲と云うなり。

 

 重欲と云うは例えば人に払うべき金銭或いは遣るべき金銭を出さず払わずして其の金を人に貸して利子を我が身に取る如き心を重欲と云うなり。

 

 自慢と云うは我が身が人に偉い者やと思わす為に我れのして来た事の中で手柄らしき事を並べそれに上手成る嘘を交えて偉そうな顔をするが如き心を自慢と云うなり。

 

 我慢と云うは我が身を強い者や達者な者やと思わそ見せようとの心にて無理に気張るを我慢と云う例えば人に対して話の中に我れの六分を十分にし人の十分を六分にする為に強情張るが如き心を我慢と云うなり。

 

 高慢と云うは人を抑制して我が身が昇階として知らぬ事を知ったらしいしたり身分不相応なる美服をまとうたり人が丁寧に頭を下げてくれるを我が身誇りて頭をさげざるが如き心を高慢と云うなり。

 

  人間たる者右の二十一の悪しき節無き者はなしなれども親神様の大恩を報ずるには是非払うべきな此の節を慎みたるを誠の神心と云うなり。二十一の悪しき埃にて前世より今世へ生まれ出で如何なる不仕合せも一身の置き所なき者も不具も片輪も独り身も妬も難儀も不自由も皆我が心にて本元潔白成る魂魄を埃にて染め込みしたる結果なり。恐るべし恐るべし